むさしの学園小学校では、今日から3学期が始まりました。

始業礼拝の話をご紹介します。

 

聖書 コリントの信徒への手紙1 12章 14節から26

体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

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主の祈り

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礼拝の話

☆転入児紹介

☆話

今日は先ほど読んだ、聖書に関わる話をします。足が「私は手ではないから、体の一部ではない」ということもないし、逆に、手が「私は足ではないから、体の一部ではない」ということもありませんよね?そして、目が手に向かって、「お前は要らない」ということもないし、逆に、手が目に向かって「お前は要らない」ということもありません。

 

それは、皆さんもよくわかっていると思います。しかし、友達同士、クラス、学校など、人の集まりで考えたらどうでしょうか?私たちは神様のお導きで、ここに縁あって集っています。一つの体なのです。それなのに、足が手に向かって、「お前は体の一部ではない」と言ったり、目が耳に向かって、「お前はこの体には要らない」と言ったりしてはいないでしょうか?言わないまでも、心の中で思ったことが全くないという人は、とても少ないのではないでしょうか?

 

自分の手が足に文句を言っていること、目が耳を追い出そうとしていることを想像してみてください。とても居心地が悪いですね。そして、そんなことを言われた立場に立つと、とても悲しいと思います。とはいえ、私たちは生身の人間ですから、誰かに対して腹が立ったり、誰かの言葉や態度に悲しくなったりすることがあるのは、自然だと思います。

 

その中で考えてほしいことは、手には手の、足には足の、目には目の、耳には耳の役割があって、つまり一人一人の違いがあるからこそ、一つを成すことができるのです。そして、手が「自分は足になりたかったな」と嘆いても仕方がありませんし、目が耳をうらやましく思っても仕方がありません。

 

だから、どんなに自分に自信を持てなくなったとしても、あなたには存在する価値があります。私は私、あなたはあなた、なのです。大事なことは、私たち一人一人に与えられた力をしっかりと活かすことです。それぞれが自分の力を伸ばすことに集中することを意識して、新しい2019年を始めたいと思います。

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終業のお祈り

天の父なる神様、今日、こうして集い、新しく1年生に仲間を迎えて3学期を始めることができることに感謝します。

これから始まる3学期は、この学年の締めくくりとなる時です。しかも、わずか2か月あまりの短い時間です。それぞれが、それぞれの力を活かし、それぞれに充実感を味わって進学、進級できるよう、心を強め、お守りください。

このお祈りをイエス様のお名前によって、お捧げします。アーメン。

3学期始業礼拝の話